親密な他者 企画意図

親密な他者

Intimate Otherness

現代の美術表現は、イベントの新型アドバルーンや新種のおみこしのようなものを生み出し、公共空間における造形物を刷新していく活力をもっているかのように見えますが、表現者の繊細な感覚を造形において実現することと求められる公共性との乖離が、いつの時代にもある問題とはいえ、むしろ広がっているのではないかとの懸念も成り立ちます。

お祭りとともにある、あるいは劇場型とも言えるアートは、周囲とのコミュニケーションにおいて一定の成果を得る一方、アートが本来持っている内省とともにある感覚と外在の事物や時空との静かな交流から生まれる機微の表現とは異なるものにならざるを得ないという面があります。

加えて、政治や経済に見るように、情報の速度と透明性を軸とした脅迫観念にも似た倫理が増すにつれ、民主主義とポピュリズムとの近似が自明のもののように浮かび上がっていますが、そうした状況に抗し、あるいは応じる、反合理主義を自らの力とする文化は、その素朴さゆえに政治や経済に利用され、透明性による倫理を反故にしてしまうような暴力へと変じることがあり、その脅威が世界を席巻する状況も見られます。前述のアートと公共性との一見幸福にみえる妥協は、こうした利用された文化の変容現象と表裏一体をなすのではないかという穿った見方も成立するもかも知れません。

 

モダニズムと新しい透明性の倫理を具現化している、いわばそれを象徴する普遍的な光と白い壁によって構成される現代アートのギャラリー空間については、大衆から離れた一部の経済状況と共犯関係にあることは否めないとは言え、20世紀前半に台頭してきたアヴァン=ギャルド芸術によって具現化された、その超越的空間における妥協のない感性の表現こそが世界の進むべき姿の、言語化できない予言的モデルを示し得るという気概をもつことを、以前にもまして、期待されていると言っても過言ではありません。

一方、自由な感性の表現などというものは、現代においては、どこにでも実現されていると思われがちですが、コンセプトとしては存在するものの、実際のものとして表現されたときには、ステレオタイプな、あるいは時の文化的力学に迎合したキッチュに過ぎないということがしばしばです。ささやかで見過ごされがちな日常や細部に内省的な発見を見出す喜びは、激動の社会であるほど、貴重さを増していますが、前述の利用された文化の喧騒の中では、冷静さを失ったものとなってしまっています。動揺と安堵のふり幅が大きいものに目を奪われ、内省的な感覚と外的なものの奇跡的な一期一会に鈍感になっているとも言えます。大規模なイベントとは一線を画した、小さなホワイトキューブのなかで見失われがちなアートの今日的な質を提示することは、単なるアートのルーティーンや守るべき形式でなく、文化利用に対する静かではあるが激しい攻めであることがますます重要となっているのでしょう。

 

本展は、現代においてアートが遠ざかってしまいがちな何かを、身近な事物や自然を独自の繊細な表現へと昇華させる3名のアーティストの作品によって、見つめ直そうとするものです。

その何かとは、言語化できないものの在りようであり、アートにしか表現できない何かであり、そして、現代でないと生み出せない何かです。展覧会タイトル「親密な他者」はその何かを表したものです。すなわち、自然なもの、日常的なものの他者性を、規模の大きさやステレオタイプな誇張とも違う方法で奇跡的に表現できるアートのあり方を象徴するものです。親密なものの中にある遠さ=美、親密なものの中にある絶えざる新しい発見と言い換えられましょう。「親密な他者」としてのアートのさまは、3者の作品の展示によって確実に浮かび上がり、現代アートならではの、現実世界を変容させる静かなるアタックとして未知の感動がもたらされることでしょう。

多くのアーティストが挑んでいるテーマとは言え、究極の静謐さと新しさをもって表現するふたりの作品が同時にギャラリーに並ぶことによって、見失いがちな、あるいは、まだ見たことのない、ものの在りようの中にある何かとして、自然であると同時に、見知らぬ他者のように、私たちの興味と視線をくぎ付けにするものと思われます。そして、現代のギャラリーの果たすべき方向、「親密な他者」としてのスペースの在り方も指し示してくれることでしょう。